SSブルー・ターポン沈没事故

提供:ACES WIKI
ナビゲーションに移動 検索に移動
この記事のタイトルは正式名称ではありません。
正式名称が不明のため、記事名は独自の仮のタイトルが使われています。
公式の日本語名が判明した場合、タイトルは変更されることがあります。

ブルー・ターポン沈没事故は1970年頃にオーシア国防海軍の潜水艦SSブルー・ターポンが航海中に沈没した事故である。全乗員の内、士官候補生を含む4名のみが生還した。なお生還者の士官候補生中に後に空母ケストレル艦長となり、環太平洋戦争後に提督まで昇進したニコラス・A・アンダーセンがいた。

概要

1970年頃、オーシア南東部沿岸のバーナ市にある潜水艦基地を拠点にしていたSSブルー・ターポンは海軍兵学校を卒業したばかりのニコラス・A・アンダーセンとアンドルー・ジェイコムフッドが乗艦し、2ヶ月の航海に出た。

2ヶ月の航海の最後の方で、潜水艦に搭載されていた訓練用魚雷から燃料が漏れ、それが爆発し浸水が発生。なおこの時に副長は火災で死亡していた。艦長は僅かに残された動力で少しでも浅い海に向かわせた。その後ブルー・ターポンは司令塔頂部から海面まで20メートルの所で着底した。

浸水は収まらなず、浮上は不可能な上、潜水艦救難艦はブルー・ターポンの事故の4時間前に首都オーレッド近海で別の潜水艦の救助活動を行っていたため間に合わない。また海底でハッチを開くのも1回のみと推測された。そこで分隊長は若い者から順に呼吸器を付け、ハッチから脱出させること決め、アンダーセンが先頭にジェイコムフッド、その他の乗員が続くこととなった。なお先頭のアンダーセンは艦長から艦隊司令部宛ての手紙を託された。

最終的に生還したのは士官候補生のアンダーセン、ジェイコムフッドとその他2名だけであった。

その後

事件後、アンダーセンは海軍から潜水艦勤務はPTSDを発症させる恐れがあると判断されたため、水上艦への転属を命じられた。

小ネタ

現実に同様の原因の沈没事故として2000年8月12日に演習中に沈没したロシア海軍の949A型原子力潜水艦クルスクの沈没事故である。爆発浸水後も全乗組員118名の内23名が生存していたが最終的に窒息で全員が死亡した。