ニコラス・A・アンダーセン
ニコラス・A・アンダーセン(Nicholas A Andersen)はオーシア連邦の海軍軍人である。最終階級は提督[1]。2010年の環太平洋戦争では第3艦隊の旗艦の空母ケストレルの艦長として戦い抜いた。
略歴
1949年頃にオーシアで4世代にわたっての船乗りの家系で生まれた[1]。
潜水艦SSブルー・ターポン
海軍兵学校では「波のない海底でひっそりと穏やかに過ごしたい」ことを理由に潜水艦の道を志願。士官候補生としてバーナ港を母港とするSSブルー・ターポンに配属される。しかし、最初の任務である2ヶ月の航海の最後でSSブルー・ターポン沈没事故に遭遇。当時の分隊長の指示で若い者から順に呼吸器を付け、ハッチから脱出させること決め、アンダーセンは艦長から艦隊司令部宛ての手紙を託され、先頭でハッチから脱出。4人の生存者の内の1人となった。事件後、海軍から潜水艦勤務はPTSDを発症させる恐れがあると判断されたため、水上艦への転属を命じられた。
その後空母に配属され、中佐の時に配属先の空母で紛争に従軍した[1]。
空母ケストレル
遅くとも2004年に第3艦隊の旗艦空母ケストレルの艦長に就任。2010年までに幾つかの紛争に従軍した[1]。
2010年9月27日の環太平洋戦争開戦直後のセント・ヒューレット軍港空襲では艦隊防空のため第7空母航空団の飛行隊を発艦させた。艦載機部隊と同国空軍のウォードッグ隊の援護の下、軍港から空母ケストレルの脱出を成功させ、残存艦で臨時戦隊を指揮し、ユークトバニア海軍の封鎖線を突破した。
9月30日、アンダーセン大佐はイーグリン海峡で第3艦隊の他の2隻の空母ヴァルチャーとバザードと合流するよう命じられた。艦隊がユークトバニア海軍の航空機の攻撃を受けたとき、アンダーセンはケストレルの戦闘機部隊である第206戦闘攻撃飛行隊を発進させ、敵戦闘機を迎撃した。しかし、艦隊はその後、ユークトバニアの潜水空母シンファクシから発射された2発の散弾ミサイルの攻撃により空母2隻、駆逐艦フィンチ、多数の航空機を失うも、ケストレルは無傷で生き残った。
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 ACES at WAR A HISTORY 2019、52 - 57頁